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日语文学作品赏析:《島木赤彦臨終記》

2014-08-11 21:07:28来源:沪江日语

  六

  三月二十六日午前五時四十分に、四人は急いで上諏訪の停車場で降りた。町の家々は、未だひつそりとして居る。雪のさかんに降るなかを四人は布半ぬのはん旅館にたどりついて、戸を破れる程たたいた。

  布半には東京から来た人々はもう誰も宿とまつてゐなかつた。赤彦君はもう駄目に相違ないといふ予感が強く僕の心を打つたが、女中は、守屋喜七もりやきしちさんの宿つてゐられることを告げたので、四人は守屋さんの部屋になだれるやうにして入り込んだ。守屋さんは、赤彦君の息のまだ絶えないでゐることを語られた。赤彦君の親しい友である守屋さんは病をおして長野から来てゐたのである。

  四人は女中をせきたてて、人力車じんりきしやを雇つてもらつた。雪の降るなかを人力車は走るけれども、それがもどかしい程遅い。高木村の入口で人力車から降りて坂をのぼつて行つた。息を切らし切らし家に著いた時には、もう雪は小降りになつてゐた。入口から直ぐの部屋には昨夜来赤彦君の枕頭ちんとうをまもつた人々の一部が疲れて眠つてゐる。森山汀川ていせん君は直ぐ僕たちを赤彦君の病室に導いた。

  赤彦君は今は仰臥ぎやうぐわしてゐる。さうして、純黄色になつた顔面から、二日前に見たときのやうな縦横無数の皺が全く取れて、そのために沈痛の顔貌がんばうは極く平安な顔貌に変つてゐる。そして平安な息を続けてゐるけれども、意識はすでに清明ではなかつた。時々眼を半眼に開き、瞳ひとみはもはや大きくなつてゐた。

  主治医の伴さんは、きのふ以来帰宅せずに全く赤彦君の枕頭を護まもられたのであつた。伴さんはかういふことを語られた。赤彦君はきのふ迄までは、いつもどほり神経痛のための注射を要求されたさうである。『今日もやはり注射をしませうか』と問うたとき、『もちろん』と答へたが、それが非常に幽かすかなこゑであつたさうである。今までは神経痛のために仰臥することが出来ずに、おほむね炬燵こたつに俯伏うつぶしになつてゐたのが、昨夜以来は全く仰臥の位置の儘ままだといふことである。きのふ以来、急に脈搏みやくはくが悪くなるので、虚脱の来るのを恐れたといふことである。さういふことを伴さんは語られた。昨夜十二時過ぎに状態が悪くなつて、みんなが枕頭につめかけたのであつたが、それが少しく持直して今日に及んだのであつた。

  藤沢古実君はかういふことを話して呉れた。きのふ、岡麓さん、今井邦子さん、築地藤子さん、阪田幸代さんの見えられたとき、『先生。岡先生がおいでになりました』といふと、赤彦君は辛うじてかうべを起して、銘々に点頭うなづいたさうである。そして『ありがたう』といつたが、それが恐らく最後の言葉であつたのであらう、といふことであつた。

  それからかういふことも話して呉れた。廿三日、僕等友人が皆辞して帰つた日である。その日の夕食後、長女初瀬さんが、『今夜はお父さんはえらい楽らくのやうだね』と云つたさうである。さうすると赤彦君は、『大敵たいてき退散した』と云つて笑つたさうである。『大敵』といふのは、赤彦君が静かに静かに籠こもつてゐたかつた病牀びやうしやうに、どやどやとつめかけた平福・岩波・中村・土屋・僕その他の友人、門人を謂いつたのであつた。さうして赤彦君はつづいて、『来る人も遠いところを容易ではないよ。感謝しなければならないよ。斎藤はおれの体を気にして来て呉れたし』と云つたさうである。その言葉は遅く、切れ切れで、幽かなのである。一語いふにも骨が折れるのである。

  炬燵に俯伏して頭のところに手を組んでうつらうつらしてゐた赤彦君は、その夜の十時過ぎに居合せた家族、親戚しんせきの皆を枕頭に呼んで、『今晩おれはまゐるかも知れない』と云つたさうである。併しかし暫くすると、枕頭でみんなに茶を飲ませ、『これで解散だ』といつたさうである。それが廿三日夜のことであるから、廿四日なか一日置いて、廿五日には意識がすでに濁りかけたのであつた。

  廿六日は午ひるになり午後になり、赤彦君の状態は刻々に変つて行つた。主治医は、三時間おきに強心の薬を注射した。次男周介しうすけ君は、いま入学試験に行つて居り、けふの正午までに体格検査が済む筈はずである。そして直ぐ汽車に乗れば今夜の三時に上諏訪駅に著く筈である。それまで赤彦君の息を断たせまいといふ主治医の念願であつた。そこで夕刻、リンゲル氏液五百瓦グラムをも右側大腿だいたいの内側に注入した。それから、息のあるうち写真も撮りたい。それから藤沢古実君が土を用意して来て居り、息のあるうち恩師の顔を塑かたにとりたいといふので、夫人不二子さんの許ゆるしを得て、写真も撮り、面塑も出来た。そして廿六日は暮れた。

  夕食後、九時になり、十時になり、十一時になつたころ、息も脈も細り体が冷えかけた。そのうち夜半を過ぎたので一まづ皆が枕頭を去つて休むことにした。主治医の伴さんと僕と交る交る容態をまもつてゐたが、ふたりも少し休むことにした。午前二時に上諏訪駅まで周介君のむかひに行くやうに人を頼み、それから脈搏、呼吸の方を初瀬さんに看みてもらふやうに頼み、僕もそのまま布団をかぶつてしまつた。さて小こ一時間も経つたかとおもふころ、しきりに赤彦君を呼ぶこゑがする。それは不二子さんのこゑである。それから初瀬さんのこゑである。それから周介君のこゑである。しかし、赤彦君は一言もそれに返辞をしない。呼ぶこゑは幾たびか続いて、それに歔欷すすりなきのこゑが加はつた。僕は夢現ゆめうつつの間にそれを聞いてゐるのであるから、何か遠い世界の出来事のやうに思へる。痛切に感じてゐるやうで、実は痛切に感じてゐない。けれども暫くそれを聞いてゐるうちに、僕は反射的に身を起して布団から顔を出した。これは何かの会釈でもするつもりであつたらしい。然るに僕が顔をあらはした時にはみんなの言葉が既に絶えてもとの静寂に帰つてゐる。僕は急劇に明るい電燈の光を目に受けたので、一語も発せずに二たび布団をかぶつてしまつた。布団をかぶつてしまふと意識がだんだん晴れて来るのをおぼえた。そして先程の赤彦君を呼ぶこゑのことが写象となつて意識にのぼつて来た。気丈な不二子さんは僕等のまへにつひぞ今まで涙を見せたことはなかつた。これは侍さむらひの女房の覚悟に等しい心の抑制があつたからであらう。然るに今は他人の尽ことごとくが眠に沈んでゐる。赤彦君の枕頭に目ざめてゐるものは皆血縁の者である。そして終焉しゆうえんに近い赤彦君を呼ぶこゑが幾つ続いても、赤彦君はつひに一語もそれに答ふることをしない。血縁の者はいま邪魔なく、障礙しやうがいなくして慟哭どうこくし得るのである。僕は布団をかぶりながら両眼に涙の湧わくのをおぼえてゐた。間もなく□鳴けいめいがきこえ、暁が近づいたらしい。その頃から僕は二たび少しく眠つた。


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