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日文阅读材料:夏目漱石

2018-02-15 15:34:00来源:网络

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  夏目漱石(なつめそうせき)は明治維新(めいじいしん)の前年(ぜんねん)の1867年に生まれた。夏目家はかつて裕福(ゆうふく)だったが、漱石誕生(たんじょう)のころはあまり羽振りがよくなかった。

  幼少期(ようしょうき)には中国(ちゅうごく)の古典(こてん)を学んだが、のちに漱石の伝統(でんとう)の感覚(かんかく)を養(やしな)うのに役立った。その後、漱石は英文学(えいぶんがく)を学ぶ道を選んだ。英文学は彼と同世代(どうせだい)の若者(わかもの)にとって、新しい世界(せかい)、新しい秩序(ちつじょ)、新しいビジョンを約束(やくそく)する確かな道だった。

  大学時代(だいがくじだい)の漱石は優秀(ゆうしゅう)な学生だった。老子(ろうし)の難解(なんかい)な神秘主義(しんぴしゅぎ)に関する批評(ひひょう)やホイットマンの民主的(みんしゅてき)詩に対する賛辞(さんじ)、自然(しぜん)を題材(だいざい)にした英国(えいこく)の詩(し)の伝統(でんとう)の分析(ぶんせき)などを書いた。そして1893年、英文学士(がくし)の称号(しょうごう)を得て、東京帝国大学を卒業(そつぎょう)した。優秀な成績(せいせき)と学士号は、英文学教授(きょうじゅ)としての未来(みらい)を約束しているように思われた。

  卒業後、漱石は難なく、英語教授として東京高等師範(しはん)学校に就職(しゅうしょく)した。しかし、学問(がくもん)の分野(ぶんや)での輝かしい実績(じっせき)にも関わらず、漱石の心には空(むな)しさがつのるばかりだった。まもなく漱石は自分の人生と職業の間に越え難いギャップがあることに気付き、教師が自分に与えられた天職(てんしょく)ではないことはわかっていたが、それでは何をしたらよいかというと、漱石にはまだそれがわからなかった。禅(ぜん)の僧侶(そうりょ)のところに通(かよ)いつめたり、中学の教師として松山(まつやま) に旅立ったりしたのは、おそらくこのような焦(あせ)りや苛立(いらだ)ちからだったろう。

  1895年、漱石は松山中学に赴任(ふにん)した。松山行きは、それを決意(けつい)した漱石以外、そのまわりの人々にとっては思いがけない出来事(できごと)だった。漱石が「生きながら自分を埋めるために行った」と言う松山で、彼は自分に三つの選択肢(せんたくし)のあることを知った。それは学問の道と、放蕩(ほうとう)の道、そして結婚(けっこん) だ。

  松山で一年を過ごした後、漱石はさらに西に向かい、今度(こんど)は熊本(くまもと)の第五高等学校に赴任した。その後四年間、熊本で暮らす間、漱石は自分の内なる渇望(かつぼう)を満足(まんぞく)させるものを模索(もさく)し続けた。

  熊本での生活は一見(いっけん)充実(じゅうじつ)しているように見えたが、漱石は満足(まんぞく)していなかった。教育者として成功(せいこう)してはいたが、文学の世界に全力(ぜんりょく)を投球(とうきゅう)できるように、仕事を変えたいとつねに言っていた。自分の心の奥(おく)深くに秘められた大切(たいせつ)なことを読みとり、それを表現(ひょうげん)するための自由な時間が欲しかった。そんな生活が続く中、1900年、大学卒業後七年に渡る浮き草のような生活に終止符(しゅうしふ)が打たれた。英語教師としての専門分野の研究(けんきゅう)のために英国に派遣(はけん)されることになったのだ。

  夏目漱石が英国への最初(さいしょ)の国費(こくひ)留学生(りゅうがくせい)として、英文学研究のためにイギリスに来たのは、1900年10月28日のことだった。彼の留学期間は1902年12月までのまる二年余りに及んだ。

  ロンドンでの漱石の生活はチェイス通りでの生活を含めて、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり」といわれています。確かにその不快が募(つの)って、帰国(きこく)の年、1902年の夏頃には、医師(いし)の治療(ちりょう)を要するほどの、今でいうノイローゼにかかったといわれていた。

  でも、漱石の二年のロンドン生活は実り豊かな結実(けつじつ)をもたらした。「文学論」や「文学評論」をはじめ、「カーライル博物館」、「倫敦塔」、「自転車日記」や「永日小品」などの直接的(ちょくせつてき)な作品(さくひん)はもとより、後年(ごねん)の漱石の作家としての文学的成功は、このロンドン生活の経験を抜きにしては考えられなかったでしょ。彼がこの国で経験(けいけん)したものは、「近代」そのものであって、ここにおいて漱石はイギリスから真に学ぶべきものは学びとったのである。

  1903年、東京へ戻った漱石は、東京第一高等学校と東京帝国大学に迎えられ、「文学論」などを講義(こうぎ)した。

  1904 年12月に漱石は高浜虚子(たかはまきょこ)に勧められて、句誌「ホトトギス」に「坊ちゃん」、「草枕」、「二百十日」、「野分」を書き旺盛(おうせい) な創造力(そうぞうりょく)を示した。この時期(じき)の作品には、人生を余裕(よゆう)を持って眺めようとする傾向(けいこう)が強く、しゃれたユーモアや美的世界に遊ぼうとする姿勢(しせい)は「余裕派」と呼ばれ、当時の主流(しゅりゅう)であった自然主義(しぜんしゅぎ)に対抗(たいこう)する事になった。

  1907年に漱石は東京帝国大学の教授の地位(ちい)を擲(なげう)って、東京朝日新聞社に入社(にゅうしゃ)した。専属(せんぞく) 作家としての第一作「虞美人草」以後、彼の作品はすべて朝日新聞に掲載(けいさい)された。「坑夫」、「夢十夜」、「三四郎」を経て、「それから」以後の漱石は、初期(しょき)の作風(さくふう)から次第(しだい)に実存的関心を深め、エゴイズムの問題を中心主題とするようになる。続(つづ)いて発表した「門」は「三四郎」、「それから」とともに「三部作」と呼ばれている。

  1910年夏、漱石は胃潰瘍(いかいよう)で入院し、転地(てんち)療養(りょうよう)のために伊豆(いず)修善寺(しゅうぜんじ)に出掛(でか)けたが、そこで大吐血(とけつ)し、生死(せいし)の間をさまよった。

  1912年に漱石は自我(じが)に忠実(ちゅうじつ)に生きようする主人公(しゅじんこう)の苦悩(くのう)と、自然を「考えずに観る」ことによって至(いた)る調和(ちょうわ)的心境(しんきょう)とを描いたもの――長編小説「彼岸過迄」を発表(はっぴょう)した。

  この頃、再び胃潰瘍の発作(ほっさ)に苦しむが、学習院(がくしゅういん)で「私の個人主義」を講演、さらに随筆(ずいひつ)「硝子戸の中」を発表した。

  1916年12月9日、未完(みかん)の大作(たいさく)「明暗」(めいあん)を書いていた漱石は、胃潰瘍が悪化(あっか)し、死去(しきょ)した。

  ◆注解◆

  羽振り―声望、势力。

  ビジョン―理想、幻想、梦想。

  ホイットマン―惠特曼(1819-1892)美国诗人。

  ギャップ―分歧、差距、隔阂。

  通(かよ)いつめ―经常来往。

  苛立(いらだ)ち―焦急、急不可待。

  思いがけない出来事(できごと)―意想不到的事情。

  全力(ぜんりょく)を投球(とうきゅう)―竭尽全力。

  渡る浮き草―飘荡的浮草。

  終止符(しゅうしふ)が打たれた―终结、结束。

  不快が募(つの)って―留下了不快感。

  しゃれたユーモア―双关语的幽默、讽刺。

  地位(ちい)を擲(なげう)って―丢掉、放弃。

  エゴイズム―自我主义。

  胃潰瘍(いかいよう)―胃溃疡。

  生死(せいし)の間をさまよった―徘徊在生死线上。



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